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2015年12月31日

満50才

50年前の12月20日(昭和40年)
午後4時
丸清のカウンターに私は立っていました。

私は海岸線の田舎に生まれ
ごく普通の兼業農家に生まれた女の子
地元中津の小学校・中学校・中津南高校を卒業後
専門学校 ハリマドレスメーカーを卒業。
お嫁さんに行くまでと 
市内の化粧品店に勤めたのが 私の社会人としての第一歩。

前から好きだった主人と結婚し 専業主婦へ

主人はサラリーマンで 毎日ごくごく普通の暮らし
静かな社宅暮らしが お嫁さんとしての第一歩。
 
その内 長女が生まれ・・・
1歳になった頃

主人の両親から
「広い店を買ったので 一緒に店をしてくれないか」と頼まれ
ほんの一時だと思い
1歳の娘を 実家の母に預け 丸清のカウンターに立ちました。
それが 女将の第一歩

店はカウンター席が20席 座敷が3室在りましたが
4時に店を開けると
あれよ あれよと言う間に満席に成るのです。

実は 買ったこの店 
前の主人が『清子』さんという方で 『丸清』というお店をしていて
私も『キヨミ』と言うことで そのまま『丸清』を 引き継がせて頂きました。
毎日が 開ければ満席状態なので
私は 社宅に帰れなくなり
実家の母が 時々  娘を連れてきてくれるようになりました。
サラリーマンをしていた主人も 会社を辞めてしまいました。

会社を辞めた主人は調理場に入るため 少しの間 修業にも出ましたが
やはり門前の小僧!ですね
料理の腕は お客さんに喜んで頂いてましたね~
怖いくらい 繁盛しました。

毎年 毎年 お店を改造し 私は仕事が生きがいになり
稽古事も・・・
日舞・生け花・謡曲・お茶 すべて免状を頂きました。

その頃から・・・
主人は外へ目が行くようになったようですね~
仕事が終わる頃には  影も姿もない日々

娘も小学校に入学したので 田舎に預けていられなくなり
私が仕事の間は 実家の母が4キロの道のりを自転車で 毎日通ってくれました。
仕事が 終わると(夜中に2~3時)
先に寝ている娘と二人
とても寂しく 悲しかった事は いまでも覚えています。

まだまだ 若かった私は 
娘と二人 どのようにして淋しい夜を過ごしていたのか
もう 覚えていませんが・・・

店には 他に板場がおりましたので
商売には 不自由は無かったのですが
心に風穴が開いたような毎日。
しかし、お店を開ければ
お客さんは 素敵な方ばかりで
心は癒されました。

こんな時でも 人に笑われたく無い 私
次々と 仕事を充実させていきました。

次女の誕生もあり 実家の両親に協力してもらい
母業も頑張った事 今では 良かったと思います。

その頃 中津駅が高架になり
駅南口にビジネスホテルが建ち 
道など徐々に開拓されていきました

早く南口に出たいと願っていた私に
ホテルの南側に30坪の土地があったのです。(現在の丸清)
北口の店舗を売り
明るく開けた 南口に3階建て 建設・開店!!
板場も仲居も そのまま一緒に移って貰えた事
とても嬉しかったですね!!
その当時の費用は 実家に助けてもらいました。
(もう 返済しましたよ)
その頃 主人も少しは真面目に頑張ってました(笑)

3階を住居とし 家族4人で住んでいたのですが
毎日のように 居間のタンスを移動させ
客間として使う毎日
このままでは 子供たちが 可哀想と
自宅を別に建てる事にしました
(南口に出たのが53年6月 その翌年に自宅を)
ちなみに 自宅は4キロほど離れた 実家の土地を分けてもらいました。

店を建て 自宅を建て
お陰様で お店も繁盛。
とにかく 頑張りました。
ひたすら 働きました。

ところが・・・
また、また、主人が・・・
安心したのか 遊び癖が・・・(涙)
なぜ こんな想いをしてまで この人と一緒に居るのか?
悲しみ 悩んだ時期もありました。icon

そんな気持ちを察してか
次女が日舞の稽古に一緒に行くようになり
とても上手に踊るのです
「ママ~ 踊りが好き~ ママと一緒に 踊るよ~」
と、舞台にも立ち 私を喜ばせてくれました。
私を励ましているようでした。
(今でも 一緒に舞台を踏んでます。)

主人の我儘に 相曽がついてましたが
この店を出る(離婚)と 今まで頑張ってきたのは 何だったのか?
店も無くなる 踊りも出来なくなる 色々な言葉が脳裏を飛び交いました。

歯を食いしばって 笑顔を作る毎日でした。

心労が祟ってか 心臓の調子が悪くなり
資生堂に就職していた長女に 帰ってきてもらいました。

この娘の力を借りて 店を守ろう!!と心を新たにしました。

その長女も翌年には婿をとり 後を継いでもらってます。
家族の支えも厚くなり お客様の支えもあり お店が手狭になったので
隣の土地を買い 店舗の増設
また、これで繁盛 繁盛!!
でしたが・・・
例のごとく 主人のお遊びは 終わってなかったですね(怒)icon
そこは もう 重要では なかったですね

お店とお客様  中津を愛する事に 重点を置き
その想いを突詰め
『中津はも音頭』を作り 踊りました
仲間も沢山増え 喜びも増えました。icon

そのころ 自由人の主人 罰が当たったのか
肝臓ガン!!
遊ぶことも出来なくなり
今度は 入院 手術を繰り返し 手間が掛かるばかりになりました
もしかしたら 元気で遊んでいる方が 良かったのかも。。。

はも音頭を広める活動をしているなか
色々なご縁があり 黒田節を披露する事があったり
その 黒田節の縁で 
大河ドラマに『黒田官兵衛』を!という活動に関われ
また その活動のお陰で
海外遠征! ハワイに『黒田節』『はも音頭』を踊りに行くことができたり
大河ドラマも 姫路・博多と並び この中津市も舞台の重要な個所として描かれました。
そのような活動で楽しむようになって14~5年。

しかし また 不思議な人生
私は5年前 乳癌の宣告を受けました。
治療方針が決まり これから ガンとの戦いが始まる時
93才の姑が他界。
乳癌治療半年経過後 部分切除の手術
手術した明け方 主人は安心したのか この世を去りました。
手術の翌々日 葬儀に帰り 喪主を務めました
最後まで 世話を焼かせる主人でしたね・・・icon

今思うと 私の人生は 色んな方々にご縁があり 
色んなドラマがありましたね~ 感謝 感謝です。

身体は副作用で痺れなど有りますが 検査は良好ですし
孫たちが 大学をでて社会人になり お嫁さんが来るまでは 
死ねませんね~(笑)

50年の女将の歴史 しゃべっちゃいました

新年も 自分らしく お仕事させていただきます。

丸清 家紋




(有)割烹 丸清
〒871-0032
 大分県中津市東本町2-12
  TEL 0979-22-4055
  FAX 0979-22-4153
 営業時間 11:00~14:00
      17:00~22:00(ラストオーダー21:30)
 定休日  月曜日
 ホームページ http://www.marukiyo.co.jp
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Posted by まみさん at 17:57│Comments(0)女将のひとり言
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