2017年11月30日
NHK大河ドラマの旅
NHK大河ドラマの旅
鹿児島 西郷隆盛 中津 増田壮太郎とのゆかりの地
鹿児島城山に行ってきました(西南戦争の地)
この旅は9月の事です。
その日は あの大変だった 台風のど真ん中!!
9月16~18日。
周りの人たちから
中止にした方が いいんじゃない?と心配されましたが・・・
一度決めた事をやめたら
又!!ってのとは難しいので 行っちゃいました(笑)
豊前の国観光ネットワークの仲間7人で。
台風は おばちゃん達には 襲ってきませんでした~(^_-)-☆
中津の大河ドラマ 黒田官兵衛の時は
10年間 毎年 姫路城へ踊りに行き
ハワイまでも 宣伝に行ったんでしたね~
今度旅で 中津隊の増田壮太郎さんを深く知り
中津の町おこしに 頑張らねば~~~!!(笑)
私が出来る事って 小さな事ですが
何かに繋がっていたい気持ちになりました。
増田壮太郎さんは 福澤諭吉先生の従弟でもありますし・・・
NHKさんに 中津のシーンを 是非!撮っていただきたいですね。
西郷隆盛さんに
一日接すれば 一日の愛 二日接すれば 二日の愛・・・
指宿にも 知覧にも行きました。
桜島は 少し遠目に・・・
有意義な旅でした~
来年の大河ドラマ
どうか 中津も 賑わいますように(#^.^#)

『 桜島 旅のカーブの 噴火かな・・・』
・・・清美
鹿児島 西郷隆盛 中津 増田壮太郎とのゆかりの地
鹿児島城山に行ってきました(西南戦争の地)
この旅は9月の事です。
その日は あの大変だった 台風のど真ん中!!
9月16~18日。
周りの人たちから
中止にした方が いいんじゃない?と心配されましたが・・・
一度決めた事をやめたら
又!!ってのとは難しいので 行っちゃいました(笑)
豊前の国観光ネットワークの仲間7人で。
台風は おばちゃん達には 襲ってきませんでした~(^_-)-☆
中津の大河ドラマ 黒田官兵衛の時は
10年間 毎年 姫路城へ踊りに行き
ハワイまでも 宣伝に行ったんでしたね~
今度旅で 中津隊の増田壮太郎さんを深く知り
中津の町おこしに 頑張らねば~~~!!(笑)
私が出来る事って 小さな事ですが
何かに繋がっていたい気持ちになりました。
増田壮太郎さんは 福澤諭吉先生の従弟でもありますし・・・
NHKさんに 中津のシーンを 是非!撮っていただきたいですね。
西郷隆盛さんに
一日接すれば 一日の愛 二日接すれば 二日の愛・・・
指宿にも 知覧にも行きました。
桜島は 少し遠目に・・・
有意義な旅でした~
来年の大河ドラマ
どうか 中津も 賑わいますように(#^.^#)

『 桜島 旅のカーブの 噴火かな・・・』
・・・清美
2017年11月29日
シワ・・・( 一一)
女将のひとり言
先日亡き夫の喜寿の同窓会がありました。
(私は 一級年下です。)
数名の方は 時々 お店に来て下さるので
それなりの変化は 感じています。
ほとんどの方のお顔を見るのは
50数年ぶり・・・?
同窓会に来られた方ですから
77才でも それなりにお元気な方ばかりでした。
良いシワの入り方で 嬉しかったです。
もちろん 私も76才で
シワしわの ばあちゃんですが・・・
皆さん 顔いっぱい シワ にして
私に 微笑んでくれるんです。
なかには 全然(ちょっとオーバーですが)老けてなく
青年の様な かたも 数人見かけました
人の生き方って 様々ですね!
でも 同級生って なんか 良いですね~
年をとったから かもしれませんが・・・
学生時代に返ってしまいますから(#^.^#)
『 亡き夫の 喜寿の同窓 もがり笛 』
・・・・・清美
先日亡き夫の喜寿の同窓会がありました。
(私は 一級年下です。)
数名の方は 時々 お店に来て下さるので
それなりの変化は 感じています。

ほとんどの方のお顔を見るのは
50数年ぶり・・・?
同窓会に来られた方ですから
77才でも それなりにお元気な方ばかりでした。
良いシワの入り方で 嬉しかったです。

もちろん 私も76才で
シワしわの ばあちゃんですが・・・
皆さん 顔いっぱい シワ にして
私に 微笑んでくれるんです。

なかには 全然(ちょっとオーバーですが)老けてなく
青年の様な かたも 数人見かけました
人の生き方って 様々ですね!
でも 同級生って なんか 良いですね~

年をとったから かもしれませんが・・・
学生時代に返ってしまいますから(#^.^#)
『 亡き夫の 喜寿の同窓 もがり笛 』
・・・・・清美
2017年09月15日
割り箸
9月14日 朝から
台風のニュースで持ち切り!!
その日の夕方
カウンターに若い(20代くらいかな?)お客様がお食事に
「刺身は 何が 美味しいですか?」
と。尋ねられ
私は「イサキ・シマアジ・鱧・ヒラメ・イカ・雲丹等ですね~」と。
「では、お刺身定食を下さい!」と注文!!
若いのに お魚に興味をもって注文するなんて
ただものじゃないな~(笑) と感じました。
「どちらから お越しになったの?」
「お仕事ですか?ご旅行ですか?」と尋ねると
東京から お仕事で来られたと・・・
若い方が お刺身定食を食べていただけて
私は 嬉しくなりました。
割烹料理店に一人で入ってくださる事
お魚を注文してくださる事は
嬉しい事です。
普通 若い方たちは 唐揚げ定食などの肉系の注文が多いんですよ。
だから ちょっと びっくり!!と言うか・・・
言葉では言い現わせないんですが
とにかく 嬉しかったんです!(^^)!
食事が終わり 帰り際に
「割り箸も 上等を使ってますね~」
「木の香りがします」と。
またまた びっくり!!
大人でも 外材の箸に慣れてしまって気づかないのに
こんな若い青年が 違いに気づいてくれて・・・
きっと お育ちが良いのでしょう
素敵な親御さんに育ったのでしょう。
本当に 本当に 嬉しい夜のスタートでした。
『古すぎる 女将に嬉しい 若き客 』
・・・・・清美
台風のニュースで持ち切り!!
その日の夕方
カウンターに若い(20代くらいかな?)お客様がお食事に

「刺身は 何が 美味しいですか?」
と。尋ねられ
私は「イサキ・シマアジ・鱧・ヒラメ・イカ・雲丹等ですね~」と。

「では、お刺身定食を下さい!」と注文!!
若いのに お魚に興味をもって注文するなんて
ただものじゃないな~(笑) と感じました。
「どちらから お越しになったの?」
「お仕事ですか?ご旅行ですか?」と尋ねると
東京から お仕事で来られたと・・・
若い方が お刺身定食を食べていただけて
私は 嬉しくなりました。

割烹料理店に一人で入ってくださる事
お魚を注文してくださる事は
嬉しい事です。
普通 若い方たちは 唐揚げ定食などの肉系の注文が多いんですよ。
だから ちょっと びっくり!!と言うか・・・
言葉では言い現わせないんですが
とにかく 嬉しかったんです!(^^)!
食事が終わり 帰り際に
「割り箸も 上等を使ってますね~」
「木の香りがします」と。
またまた びっくり!!
大人でも 外材の箸に慣れてしまって気づかないのに
こんな若い青年が 違いに気づいてくれて・・・
きっと お育ちが良いのでしょう
素敵な親御さんに育ったのでしょう。
本当に 本当に 嬉しい夜のスタートでした。
『古すぎる 女将に嬉しい 若き客 』
・・・・・清美
2017年08月23日
中津祇園を終えて(#^.^#)
女将のひとり言
今年も5月に「音頭大会」を終えて
ホッとする間も無く 中津祇園の準備!!
毎年 中津祇園の中日
福沢通りで 大規模な盆踊りをするのですが
中津を代表する銀行の行員さんたちが
盛り上げてくれます
その 準備として 各銀行さんに 稽古に行かなければなりません。
今年も 計12日間 通いましたよ(^_-)-☆
踊りの曲名は
観光中津音頭・中津小唄・中津吉吾どん・なかつ鱧音頭(4曲)
練習に行って 感じた事は・・・
若いって 素晴らしいな~!!
エネルギーを いっぱいいただけました(^_-)-☆
行員さんの他に 婦人会の方々 私たち豊前の国観光ネットワークメンバー
子供たち
総勢300人の 大きな大きな輪ができて賑わいました。
15年前 『なかつ鱧音頭』が生まれtから
これまで踊り続けているのですが
このような大きな輪ができると
踊り続けてて 良かったな~と思います。
もちろん 参加してくださる 皆さんのお陰です。
特に 各銀行さんの若いパワーは 凄いです!!
来年も 頑張りましょう!!
(私が元気かな~?(笑))
祇園が終わると お盆明けに 病院の納涼祭
ある病院では 毎年 練習から参加です。
毎年 待ってくれてます
人間て 踊りバカになって とても有難いことも 有ります
踊るってことは 曲を聴いて手足を動かし
脳は 何も考えずリフレッシュ
動かした身体は満足してるし 良く寝れるし・・・
きっときっと長生きすると思います
皆さん! 踊りませんか~?
こんな 今年の夏も 無事に終わろうとしています。
今年も5月に「音頭大会」を終えて
ホッとする間も無く 中津祇園の準備!!
毎年 中津祇園の中日
福沢通りで 大規模な盆踊りをするのですが
中津を代表する銀行の行員さんたちが
盛り上げてくれます
その 準備として 各銀行さんに 稽古に行かなければなりません。
今年も 計12日間 通いましたよ(^_-)-☆
踊りの曲名は
観光中津音頭・中津小唄・中津吉吾どん・なかつ鱧音頭(4曲)
練習に行って 感じた事は・・・
若いって 素晴らしいな~!!
エネルギーを いっぱいいただけました(^_-)-☆
行員さんの他に 婦人会の方々 私たち豊前の国観光ネットワークメンバー
子供たち
総勢300人の 大きな大きな輪ができて賑わいました。

15年前 『なかつ鱧音頭』が生まれtから
これまで踊り続けているのですが
このような大きな輪ができると
踊り続けてて 良かったな~と思います。
もちろん 参加してくださる 皆さんのお陰です。
特に 各銀行さんの若いパワーは 凄いです!!
来年も 頑張りましょう!!
(私が元気かな~?(笑))
祇園が終わると お盆明けに 病院の納涼祭

ある病院では 毎年 練習から参加です。
毎年 待ってくれてます
人間て 踊りバカになって とても有難いことも 有ります
踊るってことは 曲を聴いて手足を動かし
脳は 何も考えずリフレッシュ
動かした身体は満足してるし 良く寝れるし・・・
きっときっと長生きすると思います
皆さん! 踊りませんか~?
こんな 今年の夏も 無事に終わろうとしています。
2016年02月23日
自分の好きな物を(^^)/
春は まだ 遠いかな~

ひとしきりの雨が やっと 上がったところで・・・
近くのスーパー『丸食』(現在はサンリブです)に
夕食のおかずでもと 出かけてみました。
年を重ねると なぜか 昔の味が恋しくて・・・
干しアミ ちりめん雑魚など 無性に食べたく成るんです。
昔の味と言うより 家庭の味ですよね(笑)
仕事がら 自分で作る事が少なくなったせいですが。
めったに自分で買い物に行くことは無いのですが
やはり 自分の足で買い物に出かけるものですね!!
素晴らしい 干しアミ ちりめん雑魚 が 有りました
またまた 発見!!
その近くの店舗に 懐かしい化粧品が並ぶコーナーが有りました
それも 資生堂の品々が ずらりと・・・
(結婚するまで 化粧品店で働いていた事が有るので)
立ち止まって見惚れていると
中から店員さんが出てこられ
「何か ご用意しましょうか?」と言いたげに 私を優しい目で見ていました。
『この人 私を知ってるんだ』と思い
『全部 欲しい!』と 心の中で叫び
店員さんには
「また 寄りますね」 と 言ったら・・・
娘の知り合いでした。
「先輩によろしく!」と 言ってましたから
娘の 後輩なんでしょうね・・・(笑)
ずらりと並ぶ 資生堂のパッケージ
50年以上使っている化粧品の ロゴマークをみて
全部買って帰りたくなる私は 変ですかね~(笑)
病気をしてから 自分で買い物に行かなくなっていたので
久しぶりの 感動でしたね~!!
心にこみ上げてくるものが 有りました。
なんにでも 一途
踊りにしろ 仕事に 身に纏うもの 食も 家族も
すべてを 愛おしく思って生きてきた気がする
化粧品が並んでるのを見て 涙が出るなんて
自分ながら びっくりしました。
又、この年で 新しい自分を発見!!
『 帯〆の 色思い切り 春の雨 』
清美

ひとしきりの雨が やっと 上がったところで・・・

近くのスーパー『丸食』(現在はサンリブです)に
夕食のおかずでもと 出かけてみました。
年を重ねると なぜか 昔の味が恋しくて・・・
干しアミ ちりめん雑魚など 無性に食べたく成るんです。
昔の味と言うより 家庭の味ですよね(笑)
仕事がら 自分で作る事が少なくなったせいですが。

めったに自分で買い物に行くことは無いのですが
やはり 自分の足で買い物に出かけるものですね!!
素晴らしい 干しアミ ちりめん雑魚 が 有りました
またまた 発見!!
その近くの店舗に 懐かしい化粧品が並ぶコーナーが有りました
それも 資生堂の品々が ずらりと・・・
(結婚するまで 化粧品店で働いていた事が有るので)
立ち止まって見惚れていると

中から店員さんが出てこられ
「何か ご用意しましょうか?」と言いたげに 私を優しい目で見ていました。
『この人 私を知ってるんだ』と思い
『全部 欲しい!』と 心の中で叫び
店員さんには
「また 寄りますね」 と 言ったら・・・

娘の知り合いでした。
「先輩によろしく!」と 言ってましたから
娘の 後輩なんでしょうね・・・(笑)
ずらりと並ぶ 資生堂のパッケージ
50年以上使っている化粧品の ロゴマークをみて
全部買って帰りたくなる私は 変ですかね~(笑)
病気をしてから 自分で買い物に行かなくなっていたので
久しぶりの 感動でしたね~!!
心にこみ上げてくるものが 有りました。

なんにでも 一途
踊りにしろ 仕事に 身に纏うもの 食も 家族も
すべてを 愛おしく思って生きてきた気がする
化粧品が並んでるのを見て 涙が出るなんて
自分ながら びっくりしました。
又、この年で 新しい自分を発見!!
『 帯〆の 色思い切り 春の雨 』
清美
2016年02月04日
立春
女将のひとり言
暮れから ブログ書いてませんでしたね~
一月は 終わっちゃいました
今日は 立春
癌の手術から 早5年が経とうとしています
出勤前 庭に出て 空を見上げると
なんとなく 春がそこまで来ているような・・・
小川の端っこには セリが・・・
この5年間 季節を肌で感じるゆとりが無かったな~
抗がん剤の副作用の 手足の痺れも いくらか和らぎ
少しづつですが 普通に歩くことが出来るようになってきました。
庭の山桜が 大きく 大きく 頼もしく伸びている
何もかも 新しい出来事のように思えて 嬉しい。
ここまで元気に成れたのは
仲間と踊りが有ったから
仲間と稽古をし 姫路や博多の舞台に立てたから
中津の鱧を武器に観光を興そうと
鱧音頭を制作したのは たしか 14年前の3月
今では 鱧が 足りないくらいです。
「風吹けば 桶屋が 儲かる」と 言われますが
災害だけの例えではありません。
鱧が売れれば 色んな商売に波及します。
鱧が売れれば 米 味噌 醤油 野菜 などなど・・・
数えればきりがないですよ~
鱧を食べに来た方々が 中津のお土産を手にして帰られるだろうし
温泉に入って帰ろうか と思うかもしれないし
命ある限り 中津鱧のPR音頭『なかつ鱧音頭』を踊り続けていきます。
お知らせ: 4月24日 豊前中津の音頭大会を今年も開催いたします。
グループで 踊り 演奏 など している方
ご興味のある方は ご連絡ください

暮れから ブログ書いてませんでしたね~

一月は 終わっちゃいました

今日は 立春
癌の手術から 早5年が経とうとしています
出勤前 庭に出て 空を見上げると
なんとなく 春がそこまで来ているような・・・
小川の端っこには セリが・・・
この5年間 季節を肌で感じるゆとりが無かったな~
抗がん剤の副作用の 手足の痺れも いくらか和らぎ
少しづつですが 普通に歩くことが出来るようになってきました。
庭の山桜が 大きく 大きく 頼もしく伸びている
何もかも 新しい出来事のように思えて 嬉しい。
ここまで元気に成れたのは
仲間と踊りが有ったから
仲間と稽古をし 姫路や博多の舞台に立てたから
中津の鱧を武器に観光を興そうと
鱧音頭を制作したのは たしか 14年前の3月
今では 鱧が 足りないくらいです。
「風吹けば 桶屋が 儲かる」と 言われますが
災害だけの例えではありません。
鱧が売れれば 色んな商売に波及します。

鱧が売れれば 米 味噌 醤油 野菜 などなど・・・
数えればきりがないですよ~

鱧を食べに来た方々が 中津のお土産を手にして帰られるだろうし
温泉に入って帰ろうか と思うかもしれないし
命ある限り 中津鱧のPR音頭『なかつ鱧音頭』を踊り続けていきます。
お知らせ: 4月24日 豊前中津の音頭大会を今年も開催いたします。
グループで 踊り 演奏 など している方
ご興味のある方は ご連絡ください

2015年12月31日
満50才
50年前の12月20日(昭和40年)
午後4時
丸清のカウンターに私は立っていました。
私は海岸線の田舎に生まれ
ごく普通の兼業農家に生まれた女の子
地元中津の小学校・中学校・中津南高校を卒業後
専門学校 ハリマドレスメーカーを卒業。
お嫁さんに行くまでと
市内の化粧品店に勤めたのが 私の社会人としての第一歩。
前から好きだった主人と結婚し 専業主婦へ
主人はサラリーマンで 毎日ごくごく普通の暮らし
静かな社宅暮らしが お嫁さんとしての第一歩。
その内 長女が生まれ・・・
1歳になった頃
主人の両親から
「広い店を買ったので 一緒に店をしてくれないか」と頼まれ
ほんの一時だと思い
1歳の娘を 実家の母に預け 丸清のカウンターに立ちました。
それが 女将の第一歩。
店はカウンター席が20席 座敷が3室在りましたが
4時に店を開けると
あれよ あれよと言う間に満席に成るのです。
実は 買ったこの店
前の主人が『清子』さんという方で 『丸清』というお店をしていて
私も『キヨミ』と言うことで そのまま『丸清』を 引き継がせて頂きました。
毎日が 開ければ満席状態なので
私は 社宅に帰れなくなり
実家の母が 時々 娘を連れてきてくれるようになりました。
サラリーマンをしていた主人も 会社を辞めてしまいました。
会社を辞めた主人は調理場に入るため 少しの間 修業にも出ましたが
やはり門前の小僧!ですね
料理の腕は お客さんに喜んで頂いてましたね~
怖いくらい 繁盛しました。
毎年 毎年 お店を改造し 私は仕事が生きがいになり
稽古事も・・・
日舞・生け花・謡曲・お茶 すべて免状を頂きました。
その頃から・・・
主人は外へ目が行くようになったようですね~
仕事が終わる頃には 影も姿もない日々
娘も小学校に入学したので 田舎に預けていられなくなり
私が仕事の間は 実家の母が4キロの道のりを自転車で 毎日通ってくれました。
仕事が 終わると(夜中に2~3時)
先に寝ている娘と二人
とても寂しく 悲しかった事は いまでも覚えています。
まだまだ 若かった私は
娘と二人 どのようにして淋しい夜を過ごしていたのか
もう 覚えていませんが・・・
店には 他に板場がおりましたので
商売には 不自由は無かったのですが
心に風穴が開いたような毎日。
しかし、お店を開ければ
お客さんは 素敵な方ばかりで
心は癒されました。
こんな時でも 人に笑われたく無い 私
次々と 仕事を充実させていきました。
次女の誕生もあり 実家の両親に協力してもらい
母業も頑張った事 今では 良かったと思います。
その頃 中津駅が高架になり
駅南口にビジネスホテルが建ち
道など徐々に開拓されていきました
早く南口に出たいと願っていた私に
ホテルの南側に30坪の土地があったのです。(現在の丸清)
北口の店舗を売り
明るく開けた 南口に3階建て 建設・開店!!
板場も仲居も そのまま一緒に移って貰えた事
とても嬉しかったですね!!
その当時の費用は 実家に助けてもらいました。
(もう 返済しましたよ)
その頃 主人も少しは真面目に頑張ってました(笑)
3階を住居とし 家族4人で住んでいたのですが
毎日のように 居間のタンスを移動させ
客間として使う毎日
このままでは 子供たちが 可哀想と
自宅を別に建てる事にしました
(南口に出たのが53年6月 その翌年に自宅を)
ちなみに 自宅は4キロほど離れた 実家の土地を分けてもらいました。
店を建て 自宅を建て
お陰様で お店も繁盛。
とにかく 頑張りました。
ひたすら 働きました。
ところが・・・
また、また、主人が・・・
安心したのか 遊び癖が・・・(涙)
なぜ こんな想いをしてまで この人と一緒に居るのか?
悲しみ 悩んだ時期もありました。
そんな気持ちを察してか
次女が日舞の稽古に一緒に行くようになり
とても上手に踊るのです
「ママ~ 踊りが好き~ ママと一緒に 踊るよ~」
と、舞台にも立ち 私を喜ばせてくれました。
私を励ましているようでした。
(今でも 一緒に舞台を踏んでます。)
主人の我儘に 相曽がついてましたが
この店を出る(離婚)と 今まで頑張ってきたのは 何だったのか?
店も無くなる 踊りも出来なくなる 色々な言葉が脳裏を飛び交いました。
歯を食いしばって 笑顔を作る毎日でした。
心労が祟ってか 心臓の調子が悪くなり
資生堂に就職していた長女に 帰ってきてもらいました。
この娘の力を借りて 店を守ろう!!と心を新たにしました。
その長女も翌年には婿をとり 後を継いでもらってます。
家族の支えも厚くなり お客様の支えもあり お店が手狭になったので
隣の土地を買い 店舗の増設
また、これで繁盛 繁盛!!
でしたが・・・
例のごとく 主人のお遊びは 終わってなかったですね(怒)
そこは もう 重要では なかったですね
お店とお客様 中津を愛する事に 重点を置き
その想いを突詰め
『中津はも音頭』を作り 踊りました
仲間も沢山増え 喜びも増えました。
そのころ 自由人の主人 罰が当たったのか
肝臓ガン!!
遊ぶことも出来なくなり
今度は 入院 手術を繰り返し 手間が掛かるばかりになりました
もしかしたら 元気で遊んでいる方が 良かったのかも。。。
はも音頭を広める活動をしているなか
色々なご縁があり 黒田節を披露する事があったり
その 黒田節の縁で
大河ドラマに『黒田官兵衛』を!という活動に関われ
また その活動のお陰で
海外遠征! ハワイに『黒田節』『はも音頭』を踊りに行くことができたり
大河ドラマも 姫路・博多と並び この中津市も舞台の重要な個所として描かれました。
そのような活動で楽しむようになって14~5年。
しかし また 不思議な人生
私は5年前 乳癌の宣告を受けました。
治療方針が決まり これから ガンとの戦いが始まる時
93才の姑が他界。
乳癌治療半年経過後 部分切除の手術
手術した明け方 主人は安心したのか この世を去りました。
手術の翌々日 葬儀に帰り 喪主を務めました
最後まで 世話を焼かせる主人でしたね・・・
今思うと 私の人生は 色んな方々にご縁があり
色んなドラマがありましたね~ 感謝 感謝です。
身体は副作用で痺れなど有りますが 検査は良好ですし
孫たちが 大学をでて社会人になり お嫁さんが来るまでは
死ねませんね~(笑)
50年の女将の歴史 しゃべっちゃいました
新年も 自分らしく お仕事させていただきます。

午後4時
丸清のカウンターに私は立っていました。
私は海岸線の田舎に生まれ
ごく普通の兼業農家に生まれた女の子
地元中津の小学校・中学校・中津南高校を卒業後
専門学校 ハリマドレスメーカーを卒業。
お嫁さんに行くまでと
市内の化粧品店に勤めたのが 私の社会人としての第一歩。
前から好きだった主人と結婚し 専業主婦へ
主人はサラリーマンで 毎日ごくごく普通の暮らし
静かな社宅暮らしが お嫁さんとしての第一歩。
その内 長女が生まれ・・・
1歳になった頃
主人の両親から
「広い店を買ったので 一緒に店をしてくれないか」と頼まれ
ほんの一時だと思い
1歳の娘を 実家の母に預け 丸清のカウンターに立ちました。
それが 女将の第一歩。
店はカウンター席が20席 座敷が3室在りましたが
4時に店を開けると
あれよ あれよと言う間に満席に成るのです。
実は 買ったこの店
前の主人が『清子』さんという方で 『丸清』というお店をしていて
私も『キヨミ』と言うことで そのまま『丸清』を 引き継がせて頂きました。
毎日が 開ければ満席状態なので
私は 社宅に帰れなくなり
実家の母が 時々 娘を連れてきてくれるようになりました。
サラリーマンをしていた主人も 会社を辞めてしまいました。
会社を辞めた主人は調理場に入るため 少しの間 修業にも出ましたが
やはり門前の小僧!ですね
料理の腕は お客さんに喜んで頂いてましたね~
怖いくらい 繁盛しました。
毎年 毎年 お店を改造し 私は仕事が生きがいになり
稽古事も・・・
日舞・生け花・謡曲・お茶 すべて免状を頂きました。
その頃から・・・
主人は外へ目が行くようになったようですね~
仕事が終わる頃には 影も姿もない日々
娘も小学校に入学したので 田舎に預けていられなくなり
私が仕事の間は 実家の母が4キロの道のりを自転車で 毎日通ってくれました。
仕事が 終わると(夜中に2~3時)
先に寝ている娘と二人
とても寂しく 悲しかった事は いまでも覚えています。
まだまだ 若かった私は
娘と二人 どのようにして淋しい夜を過ごしていたのか
もう 覚えていませんが・・・
店には 他に板場がおりましたので
商売には 不自由は無かったのですが
心に風穴が開いたような毎日。
しかし、お店を開ければ
お客さんは 素敵な方ばかりで
心は癒されました。
こんな時でも 人に笑われたく無い 私
次々と 仕事を充実させていきました。
次女の誕生もあり 実家の両親に協力してもらい
母業も頑張った事 今では 良かったと思います。
その頃 中津駅が高架になり
駅南口にビジネスホテルが建ち
道など徐々に開拓されていきました
早く南口に出たいと願っていた私に
ホテルの南側に30坪の土地があったのです。(現在の丸清)
北口の店舗を売り
明るく開けた 南口に3階建て 建設・開店!!
板場も仲居も そのまま一緒に移って貰えた事
とても嬉しかったですね!!
その当時の費用は 実家に助けてもらいました。
(もう 返済しましたよ)
その頃 主人も少しは真面目に頑張ってました(笑)
3階を住居とし 家族4人で住んでいたのですが
毎日のように 居間のタンスを移動させ
客間として使う毎日
このままでは 子供たちが 可哀想と
自宅を別に建てる事にしました
(南口に出たのが53年6月 その翌年に自宅を)
ちなみに 自宅は4キロほど離れた 実家の土地を分けてもらいました。
店を建て 自宅を建て
お陰様で お店も繁盛。
とにかく 頑張りました。
ひたすら 働きました。
ところが・・・
また、また、主人が・・・
安心したのか 遊び癖が・・・(涙)
なぜ こんな想いをしてまで この人と一緒に居るのか?
悲しみ 悩んだ時期もありました。

そんな気持ちを察してか
次女が日舞の稽古に一緒に行くようになり
とても上手に踊るのです
「ママ~ 踊りが好き~ ママと一緒に 踊るよ~」
と、舞台にも立ち 私を喜ばせてくれました。
私を励ましているようでした。
(今でも 一緒に舞台を踏んでます。)
主人の我儘に 相曽がついてましたが
この店を出る(離婚)と 今まで頑張ってきたのは 何だったのか?
店も無くなる 踊りも出来なくなる 色々な言葉が脳裏を飛び交いました。
歯を食いしばって 笑顔を作る毎日でした。
心労が祟ってか 心臓の調子が悪くなり
資生堂に就職していた長女に 帰ってきてもらいました。
この娘の力を借りて 店を守ろう!!と心を新たにしました。
その長女も翌年には婿をとり 後を継いでもらってます。
家族の支えも厚くなり お客様の支えもあり お店が手狭になったので
隣の土地を買い 店舗の増設
また、これで繁盛 繁盛!!
でしたが・・・
例のごとく 主人のお遊びは 終わってなかったですね(怒)

そこは もう 重要では なかったですね
お店とお客様 中津を愛する事に 重点を置き
その想いを突詰め
『中津はも音頭』を作り 踊りました
仲間も沢山増え 喜びも増えました。

そのころ 自由人の主人 罰が当たったのか
肝臓ガン!!
遊ぶことも出来なくなり
今度は 入院 手術を繰り返し 手間が掛かるばかりになりました
もしかしたら 元気で遊んでいる方が 良かったのかも。。。
はも音頭を広める活動をしているなか
色々なご縁があり 黒田節を披露する事があったり
その 黒田節の縁で
大河ドラマに『黒田官兵衛』を!という活動に関われ
また その活動のお陰で
海外遠征! ハワイに『黒田節』『はも音頭』を踊りに行くことができたり
大河ドラマも 姫路・博多と並び この中津市も舞台の重要な個所として描かれました。
そのような活動で楽しむようになって14~5年。
しかし また 不思議な人生
私は5年前 乳癌の宣告を受けました。
治療方針が決まり これから ガンとの戦いが始まる時
93才の姑が他界。
乳癌治療半年経過後 部分切除の手術
手術した明け方 主人は安心したのか この世を去りました。
手術の翌々日 葬儀に帰り 喪主を務めました
最後まで 世話を焼かせる主人でしたね・・・

今思うと 私の人生は 色んな方々にご縁があり
色んなドラマがありましたね~ 感謝 感謝です。
身体は副作用で痺れなど有りますが 検査は良好ですし
孫たちが 大学をでて社会人になり お嫁さんが来るまでは
死ねませんね~(笑)
50年の女将の歴史 しゃべっちゃいました
新年も 自分らしく お仕事させていただきます。
